旅の思い出36「向島集会所の一夜」

瀬戸内国際芸術祭⑦

思えば今回も前の晩の高速道路から始まった長い1日を過ごしてきたが、ついに夕食・宿泊の時間になった。(本当に)いつもの事だが、思い起こせばハードな1日だった。
宿を管理する人と待ち合わせた港から、我々が宿泊する予定の向島は十数メートル海を隔てた先に見えている。本当に泳いで渡れそうな距離である(絶対にしないが)。
本当は直島で夕食を摂り向島の宿では泊まるだけの予定だったのだが、夕方5時を過ぎた頃から直島の飲食店という飲食店が閉まり、我々は開いてそうな飲食店を方々歩き回って探したが開いている店はついに見つけられなかった。失意と空腹で座り込んだ我々の目に、瀬戸内の夕陽はあまりにも眩しく、美しかった(タフなメンバーKは夕陽を撮りまくっていた)。初めは夕食は必要ないと告げていた宿の管理人に改めて事情を説明したところ夕食を用意してくれるとの返事だったので、空腹のまま明日の朝まで過ごさずには済んだようだが、私は内心不安にかられていた。今夜我々が泊まる宿は、正式には“宿”では無い。その名も「向島集会所」なのだ。無論宿泊施設として経営されているのだが、私は過去にこのメンバーで泊まり、(私だけ)何とも言えない思いをした“微妙な宿”の記憶が蘇っていたのだ。

島の移動手段我々を迎えに来てくれた宿の管理人は私の(勝手な)想像よりも若く、男前の青年だった。彼は我々を自家用の船に乗せてくれた。やはり瀬戸内の島々を移動するのに車よりこのような船の方が何かと都合が良いのだろう。船の中に積まれた釣り道具から、この船が彼にとって身近な存在である事は明らかだった。
夕陽を反射する静かな水面を切るように船は進んだ。夕陽はどこまでも美しく、海はどこまでも穏やかだった…と感傷に浸るヒマも無いくらいすぐに船着き場に着いた。我々はついに向島に到着してしまった…と、緊張していたのは私だけで、他のメンバーはむしろはしゃいでいた。

向島集会所ジャングルのような亜熱帯を思わせる植物に囲まれた道を抜け、我々は向島集会所の玄関に立った。私が想像していたよりは大きな建物で少し安心したが、玄関の鍵を開ける彼の姿を見て驚いた…この「向島集会所」の管理は全て彼1人で行っているのだ!
私は料理を作るオバちゃんくらいは他に居るだろうと(またしても勝手に)想像していたので、またしても鳥取の“微妙な宿”の記憶が頭に蘇った。中に入ると、一人暮らしの男の部屋に遊びに来た錯覚を覚えた。管理をする青年は自分の事を「よっちゃん」と呼んでくれと言い、宿帳に記入する代わりに我々の顔写真をチェキで撮った。
何だか不思議な雰囲気のよっちゃんは、話を聞いていると岐阜県の農家の出身で家業はお兄さんが継ぎ、自分は日本全国を放浪した末に直島に辿り着いて今の管理人に落ち着いたという…聞けば聞く程不思議な青年である。何より驚いたのは私と同い年だった事だ…生き方が違えば“老け”の進行も違うモノだ…
よっちゃんは「ウチは自炊が基本です」と言い、今夜泊まる我々と4人で夕食の支度をするように我々を台所に促した。私は正直「面倒くさい」と思ったが、これが向島集会所のルールであれば従わなければならない。我々はよっちゃんが用意してくれた食材を洗ったり切ったりして鍋の準備を進めた。よっちゃんは土鍋で米を炊き、市場で買って来た瀬戸内の魚を焼いてくれた。居間に鍋をセットした我々は、ようやく夕食にありつけたワケだが昨晩からロクに眠っていない我々は、鍋を突つきながら眠りそうになるのを堪えるのに必死だった。しかし、よっちゃんが焼いてくれた魚を一口食べて目が覚めた…驚く程旨いのだ!私は普通の焼き魚でこれほど旨いと感じた事は過去に無かったと断言しても良い。私は瀬戸内に来て、ようやく瀬戸内らしい食べ物を食べた気がした。そしてよっちゃんが土鍋で炊いてくれたご飯もまた実に旨かった。魚とご飯の旨さに覚醒した私が気が付いた事は、我々メンバー3人よりもよっちゃんが鍋とご飯をより多く食べていた事だ。「俺たち、客だよな…」と思うヒマも与えぬ程猛烈な勢いで食べる細身の体には似つかわしくないよっちゃんの食べっぷりに、我々3人はむしろ感心してしまった。夕食の片付けを終えた我々は順番に風呂に入った。私の番になって風呂場に入ってみると、ゆったりと浸かりたかった湯船は(理由は不明だが)コンクリートで埋められて、おそらく湯船があったであろう場所はこんもりと盛り上がっていた。私はコンクリート造りの“土俵”の上で体を洗っているようで妙な気分になった。
私は好奇心から、風呂から上がったらよっちゃんのパーソナルな話を聞き出そうと考えていたのだが、昨晩からの疲労に勝てずすぐに男部屋に入ってしまった。今夜の泊まり客は我々3人だけだったので私は男部屋を占拠し部屋の真ん中に布団敷いて眠った。私は、私の中にあったこの集会所に来るまでの不安がいつの間にか消えている事に気付いた。私はむしろ「よっちゃんの家」に泊まりに来たと思う事にした。そう思うと全てが許せたし心地良かった。私はまた新たに不思議な宿を体験したワケだが、今夜の私はむしろ心地良く眠った…


関連記事

Categories

Instagram